【泉】泉地区を守り続ける小さな神社 ー彌高泉神社ー②

みなさん、こんにちは☀️ 泉地区担当PR大使、岡野友香です!

今回は前回に引き続き、彌高泉神社について紹介していきたいと思います!

今回のトピックはこちら!じゃんっ!

彌高泉神社に祀られている神様について&賽銭箱の武勇伝!!!

彌高泉神社とその神様について、誰もが楽しんで知ることができる記事を書いたつもりなので、ぜひ読んでいってやってください!よろしくお願いします🙇‍♀️

前回の記事もチェック!↓

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どんな神様が祀られているの?

神社に祀られている神様のことを御祭神(ごさいじん)というのですが、彌高泉神社には二柱の御祭神が祀られています。この御祭神は彌高神社と同じ御祭神なのですが、それは彌高神社から神様を分けていただいたからなのだそうです。

彌高泉神社には、秋田に馴染みのある2人の人物、平田篤胤佐藤信淵が神として祀られており、「平田篤胤大人命・佐藤信淵大人命」と呼ばれています。ちなみに「大人(うし)」は、「神または高貴な人」の尊称だそうです。

◎1柱目 平田篤胤大人命(ひらたあつたねうしのみこと)

平田篤胤は江戸時代を生きた四大国学者のうちの一人で、神道家、思想家、医者でもありました。秋田県秋田市(現在の秋田市中通4丁目)の出身で、25歳の時に備中松山藩(現在の岡山県)の藩士であり兵学者の平田篤穏の養子となります。26歳の時、国学者である本居宣長の著作に出会い、彼のもと入門しようとしますが、すでに亡くなってしまっていたため、夢の中で宣長に入門を許可されたと主張していて、「宣長没後の門人」と自称したというエピソードも有名です。

国学を学び、様々な著作を発表した篤胤ですが、晩年は江戸幕府より危険人物視され、天保12年、国元退去を命じられ、秋田で生涯の幕を閉じました。そのお墓は秋田市手形大沢にあるそうです。

国学…『古事記』や『万葉集』など日本の古典を研究し、儒教や仏教が日本に影響を与える前の日本人の思想や文化を明らかにしようとした、江戸時代の学問。

四大国学者荷田春満(かだのあずままろ)

      賀茂真淵(かものまぶち)

      本居宣長(もとおりのりなが)

      平田篤胤(ひらたあつたね)

参考文献

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4#%E5%9B%BD%E5%AD%A6%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%87%BA%E4%BC%9A%E3%81%84

https://tromolo.jp/hirata-atsutane/

 

◎2柱目 佐藤信淵大人命(さとうのぶひろうしのみこと)

佐藤信淵は農学者・経済学者・兵学者・農政家であり、本業は医者というハイスペックな人物です。出身は秋田県雄勝群羽後町だと言われています。

47歳の時に当時40歳であった平田篤胤に入門し、国学を学んだそうです。

参考文献

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5

 

この二柱のプロフィールを見るとわかるように、二柱とも学問に人生を捧げて、日本の国(江戸時代後期)に大きな影響を与えました。

つまり、泉神社の神様は学問の神様と言えますね!

 

また、秋田の生んだ偉人であるこの二柱については、秋田県民歌の三番にも歌われています。

 

秋田県民歌

一、

秀麗無比なる 鳥海山よ

狂瀾吼え立つ 男鹿半島よ

神秘の十和田は 田沢と共に

世界に名を得し 誇の湖水

山水皆これ 詩の国秋田

二、

廻らす山山 霊気をこめて

斧の音響かぬ 千古の美林

地下なる鉱脈 無限の宝庫

見渡す広野は 渺茫(びょうぼう)霞み

黄金と実りて 豊けき秋田

三、

篤胤信淵 巨人の訓(おしえ)

久遠に輝く 北斗と高く

錦旗を護りし 戊辰の栄は

矢留の城頭 花とぞ薫る

歴史はかぐわし 誉の秋田

四、

民俗勝れて 質実剛毅

正義と自治との さとしを体し

人材遍く 育みなして

燦たる理想に 燃え起つ我等

至純の郷土と 拓かん秋田

神様の数え方

先程の項目をみて、「あれ?柱ってなんだ…?」思った人もいるかもしれません。

そうなんです、神様は「1人、2人…」ではなく、「1柱、2柱…」というように数えるのです!!この取材を通して初めて私は知りました笑(柱と聞くと、鬼滅の刃を思い出してしまいますね!笑)

なんと、この数え方は『古事記』が書かれた時にはすでに確立されていたそうです。

ここで、本題とは少し外れてしまうのですが、「なぜ神様は柱と呼ばれるのか」について調べてみました!諸説あるようですが、自分が調べたものの中で最もしっくりきたものを紹介します。

『日本書紀』推古28年(620)10月条に、推古天皇の父欽明天皇と母堅塩媛(きたしひめ)を埋葬した古墳を修復し、その後で氏族ごとに柱を建てさせた、とあります。ここから、「神道」というものが成立する以前の古墳時代、亡き天皇の霊を前に各氏族が柱を建ててそれぞれの神を降ろす儀礼があったと想定されます。その時、柱の数を数えて、その場に降臨した神様の数を確認していたのではないでしょうか? 「柱」は、古墳時代の終焉と共に実際に建てられなくなりますが、目に見えない形で日本人の神観念の中に残存していきます。神様の助数詞「柱」は、その一つだったのです。

(三橋 たかし、明星大学人文学部日本文化学科HP、2004)https://www.jc.meisei-u.ac.jp/action/course/001.html

他にも、「樹木にも神が宿っていると考えた昔の日本人が、神・神体・神像を数える時に「柱」という単位を使ったから」という考え方もあるようです。

いずれにせよ、はるか昔の風習や「全てのものに神が宿る」という日本人特有の考え方がこの「柱」という概念に繋がったのですね…。なるほど、面白い!!!!!!!😆💕

賽銭箱の武勇伝

賽銭箱といえば、社の外に置いてあるイメージですが、彌高泉神社の賽銭箱は社の中に設置されており、扉に開けられている小さな窓からお賽銭を入れる仕組みになっています!

これはこれで、ピタゴラスイッチのような感覚で(ごめんなさい…)とてもユニークだとは思いますが、なぜこのような形式になっているのでしょうか?

 

実は、彌高泉神社の賽銭箱は過去に2度ほど、中身が抜かれてしまい、違う場所に捨てられてしまうという盗難被害にあっています。(そんな罰当たりなことをするやつはどこのどいつだ!!😡)

そのような悲しい事件を二度と起こさないために、このような形式になっているのです。

 

ただ、この賽銭箱にはこの事件にまつわる武勇伝があります!

2回目の盗難被害にあった時、探しても全く見つからからず諦めかけていたのですが、

2・3ヶ月後に、なんと土崎の海で賽銭箱が発見されたという報告が入ったのです!!!!

海で見つかった時には原型をとどめないほどボロボロでしたが、「神が賽銭箱を私たちの元へ届けてくれたのだろう」と思い、なんとか残っている部分を再利用しながら現在の賽銭箱(上の写真)が作られました。

 

心ない人に奪われ、暗い海に飲まれつつも、なんとかして彌高泉神社に戻ってきた賽銭箱。

なんだかご利益を感じますよね!

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今回は彌高泉神社の神様と賽銭箱について書かせてもらったのですが、楽しんでいただけましたでしょうか?

平田篤胤と私の地元である岡山県に、少しですが繋がりがあり、縁のようなものを感じて嬉しくなってしまいました😊

私も賽銭箱と同様、この神社に導かれたのでしょうか?

 

次回は、いよいよ彌高泉神社についての記事最終回!

彌高泉神社のお祭り、彌高泉神社のこれからについて書けるといいなと思っています。

お楽しみに!!

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