【川尻】川尻秋田銭とは?

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皆さんは川尻秋田銭という銭貨をご存知でしょうか?実は川尻村では銭貨を造っていた時代がありました。今回は川尻にあった銭座について紹介させていただきたいと思います。

佐竹藩は元文3年(1738年)、幕府の許可を受け、川尻村上野で銭座(江戸時代に寛永通宝をはじめとする銭貨を鋳造した機関・組織)を新設して鋳銭を開始しました。院内銀山や阿仁鉱山など、秋田は鉱山にも恵まれていたためでしょうか。跡地は現在の秋田刑務所の南側付近であったといい、標柱は秋田刑務所の西の角にたっています。

敷地は90間四方でその外に幅3間、深さ1丈の堀をめぐらして、内に24棟の建物を設け、職人も72人いたといいます。付近には50軒もの下宿屋が建ち、一躍にぎやかな町になったそうです。

延享2年(1745年)幕府の中止命令で廃止され、7年間の稼働となりました。当時、鋳銭1日1000貫ずつでき、年間70万貫の生産をあげる計画であったといいますが実際は、約12万貫だったそうです。(1貫は3.75kgです。銭貨1000枚の重さが由来と言われています。)

ここで鋳造された「寛永通宝」は、銅銭で、「元文秋田銭」といって全国にわたって使用されました。また、「秋田川尻銭」とも呼ばれていて、虎の尾はじき永のしるしというかわった特徴があります。寛永通宝の永の字の5画目の末端が上に跳ね上がっているということです。

材料の銅と鉛は藩内産であり、すずは大阪から購入したそうです。この銭は今なお、愛蔵している人が多くいると言われています。私は一度も見たことがないです。ぜひ見てみたいです。

鋳銭所の入り口に裸門(はだかもん)があって、職人の入所と退所のときここで裸にされ、銭の持ち出しを監視していたと言います。

川尻にあるのは標柱だけですが、当時の銭座稲荷は保戸野鉄砲町に移されています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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