【築山】大名たちの歩みはここに?(宣伝有)

皆さん、こんにちは🐸

本日もまちプラ秋田中央をご覧頂きありがとうございます。

まずは宣伝です!

9月9日(木)に放送されたCNAコミュニティチャンネル「し~なチャン」(MC:椎名恵さん、コメンテーター:西村修さん)で、まちプラ秋田を始めたきっかけ、活動の体験談などをお話してきました!

10地区リーダーの菅原魁人さん、保戸野PR大使の加藤人識さんと一緒に出演しています。生放送でしたが、アーカイブがYouTubeから見られるので是非ご覧ください😍

さて!本日お話するのは、皆さんご存じかと思われる「参勤交代」についてです😆

参勤交代とは江戸時代にあった「全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参覲し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行う制度」のことです。つまりとんでもない数の人々が日本を移動したわけですね。移動をさせることで各藩に金銭的負担を与えたり、人質をとるような形になるので、結果大名家たちに力を持たせすぎないようにする目的があったようです。

ここ秋田もその例外ではありません。

私が普段紹介している築山の道も参勤交代に使われていたと言われています。(私も全く知らなかったのですが地域の方に伺いました😂)

 

秋田市ホームページには次のようにあります。

秋田藩であれば久保田から江戸まで約600キロメートルの道のりを14日間~15日間かけて移動した。

ルートは同藩の場合もっぱら羽州街道を利用している。

山形県側から奥羽山脈を越えるとき、江戸時代初期には山形市から東行する笹谷峠越えが用いられたが、のち上山市から東行する七ヶ宿経由のルートに移った。

県内の他藩の参勤ルートは史料が乏しく全貌を明らかにするのは難しい。

亀田藩や本荘藩は、本荘街道を通って矢島領の追方(老方)を通り大沢村(横手市雄物川町)を経由し羽州街道に出るルートを利用したが、江戸時代後半には北国街道と最上川舟運をあわせて利用したこともある。

本荘藩では文化12年(1815年)の下国時に北国街道を通っている。

亀田藩では川大内街道のほか亀田街道も利用したことがあり、矢島街道を経て甑峠を越え及位に出るときもあったという。

秋田市ホームページより

秋田県からは秋田藩亀田藩本荘藩矢島藩が参加していたようですね。羽州街道は「久保田道」や「津軽街道」と記されることもあります。

楢山登町は江戸上り参勤交代の道筋で登町といわれていて、楢山13か町の戸長役場があった戸数125同20年巡査派出所設置昭和42年住居表示実施により一部が楢山南中町となり,残余地区は亀ノ丁虎ノ口亀ノ丁西土手町末丁亀ノ丁西土手町中亀ノ丁末町馬口労町楢山入川橋通登町川尻町などの各一部を合わせ現行の楢山登町となりました🤩

 

今回は難しい話が多くなってしまいましたが😅楢山の歴史のある町並みが好きという地元の方が思っていたよりも多く、私も話を聞くたびに調べてしまいます笑

次回はコーヒー&ニット IVY(アイヴィー)さんについて取り上げます!私が感動で涙を流すという想定外のことも笑😂 素敵なお店ですので是非次回も見に来てくださいね!

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