こんにちは!🌷
本日もまちプラ秋田をご覧下さりありがとうございます。💛
さっそくですが,築山について調べる中で,興味深いことを耳にしました。
皆さんは築山地区の町並みをみて何か気付いた点はございますでしょうか?
実は築山地区には「T字路」や「曲がり角」など見通しの悪い道が多いんです。
う〜ん・・・実際に住むと不便ではないでしょうか?🤭 💦
いいえ,これにはちゃんと理由があります。❣️ 適当に作ったらこうなった訳ではありません!笑
築山は城下町?
これは現在の千秋公園がまだ久保田城だった頃のお話・・・。
築山地区は久保田城の城下町の一部でした。
以下の地図を御覧ください。↓
手書きですみません(^_^;) お城周辺の概略となっています。
築山地区は現在の秋田駅を通る路線と,中通り,川に囲まれた,「内町(うちまち)」と呼ばれていた場所に位置しています。
他にも「外町(とまち)」,「寺町(てらまち)」があることがわかりますね!
1.内町(うちまち)
お侍さんが住んでいたため,「侍町」とも呼ばれます。城から見て,より外側になるほど身分の低いお侍さんが住んでいたそうです。⚔️
書籍にはこうあります。
内町は久保田城を中心に三の曲輪(くるわ)・四の曲輪・亀の丁曲輪・支城破却に伴う給人の移転先として,北東の手形,北西の保戸野,三・四の曲輪以南の楢山(ならやま)・長野下(ながのした)・築地(つきじ)が外曲輪をなした。堀川(旭川)を境としてその東側を内町と総称した(山川出版社・「秋田の歴史散歩」より)
内町の中でも町割りが3回実施されており,さらに細かく侍町・足軽町・中間町に分かれていたという文献も残っています。楢山は古くは農村でしたが,のちに足軽町となりました。😮
ここで先程の,「築山が見通しの悪い道路のつくりをしている」理由を考えてみましょう。
まず,お城があればそこを襲撃する敵もいることになりますよね。
つまり,城を守るにはなるべく敵が近寄りにくい構造が必要になります。
T字路や曲がり角が多ければより長い距離を歩くことになり,迷いやすくもなります。
敵の襲撃の際に時間稼ぎをする狙いがあったのですね!⏰
2.外町(とまち)
商人が住んでいたため,「商人町」とも呼ばれます。こちらは逆に,道路がスッキリした十字路で統一されており,移動が容易になっています。物品を多く運搬する商人の生活を考慮したつくりなのですね!😳
ただし,内町と同様の軍事的理由により,川に架けられた橋は内町の道路と食い違うように配置されています。
藩政期の町割りは東に羽州街道,西に由利街道へと続く。馬口労町を南に,北は,久保田城と土崎を結ぶ。通町・大工町・鉄砲町・花立町,外辺部で寺町に接していた。(山川出版社・「秋田の歴史散歩」より)
3.寺町(てらまち)
こちらは名前の通り,お寺がたくさん建てられた地域です!道路はジグザグにつくられていて,寺を建てるのには西側からの敵の侵入を防ぐ目的もあったそうです。
ここにある寺院は,真言宗10寺・曹洞宗4寺・浄土真宗9寺・日蓮宗5寺・浄土宗6寺・臨済宗4寺・時宗2寺と各宗派にわたっています。(「秋田六郡寺院調査」より)
これらお寺はおおむね3つの種類に分類できますが,ここでは長くなってしまうのでまだ書かないでおきます!(^_^;)
最後に。
町の地域ごとの役割を知ると,昔の人々の生活が目に浮かんで楽しいですね!
久保田城は1880年の火事によりほぼ消失してしまったのですが,今でもその名残が公園となり,春の桜🌸など豊かな自然で私達を楽しませてくれていますね。😄
では本日は一旦ココまでとさせていただきます!(*^^*)最後までお読みいただきありがとうございました。
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