【旭北】この苗字、よく見かけません?

旭北地区を散策すると、お店の看板などでよく見かける苗字があります。

そう、「那波」さん…!!!
過去の旭北地区の記事にもありましたよね、
那波紙店」「那波伊四郎商店」「感恩講創設者 那波祐生氏」

なんとなーく那波さんが多いなぁ、でスルー出来ない歴史があることを
皆さんはご存じでしょうか?

歴史を知ることは、より地域に親しみを感じ
さらには自分の地域に愛着が持てます!
(地域を語れるという自慢にもなります!)
さあさあ、その歴史を見てみましょう…

那波家は様々な商品の販売を手掛けている秋田を代表する老舗です。
伝承によると、那波家は京都から移住したと伝えられています。
京都では室町の両替屋でした。
1615年の大坂夏の陣(詳しくはこちら)に巨額の軍用金を秋田藩に融通し、
慶安3(1650)年頃には、秋田藩京都屋敷御用商人になったと考えられています。

御用商人となってから、京都の那波三郎右衛門が
「佐竹を慕って」と秋田に下向したのは宝永7(1710)年頃であると
考えられています。

その後何年か経ち、茶町扇の丁に店を構え、
那波祐生氏の現代的な経営手腕により、
殖産興業の波に乗ることができ、後に絹方として大成。
現代まで繁栄が続くことに。
こうして城下屈指の豪商になりました。

話題は変わり俵屋火災について。
感恩講の回でも触れた俵屋火災では、町の人々が那波家を火から守りました

それはなぜか。
豪商としての力はもちろんですが、
感恩講といった慈善事業に力を入れていた代々の徳があったからです。


「那波焼ぐな!」
と叫ぶ声にたちまち何百人もの人が、那波家にめがけて駆けつけ、
さらには消防団などが那波家周辺の屋根へ上り、火の粉を払いました。
当時、那波家の向かいには老舗菓子店栄太楼があり、
栄太楼をも火から守ることができたそうです。

栄太楼は以来「那波のご恩は一生忘れまじきこと」と
子孫代々に伝えられているとか。

ちなみに、冒頭の写真で登場した「那波家の水汲み場
江戸時代から明治にかけて、外町の飲み水はほとんど、
旭川の川水を使用したそうです。

1 COMMENT

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。