【旭南】知ってほしい!旭南の歴史 その1

先日、初めて市立図書館に行って旭南の歴史について調べてきました。
(私めっっちゃ運転苦手なのですが、初めての道&混んだ駐車場で半泣きでした(笑))

初めて知ったことやなるほど!と思ったことがたくさんあるので
今回はその1として(何回続くかはまだ未定ですが…)この記事を読んでくださった皆さんにシェアしたいと思います!

文字ばかりの記事になってしまいますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

1607年
佐竹氏は久保田と名を付け、城下町をつくり始めました。
旭川を境界に
東側を侍の町である内町

西側を町人・農民の町である外町としました。

旭南は商人・職人・労働者の町、外町だったんですね!

1629年
旭川が掘り変えられまっすぐになると、大町から馬口労町まで屋敷の割り直しをし、外町の道路は碁盤の目状に整備され
馬口労町は、船つき場を中心にとてもにぎわいました。

さらっと出てきましたが「馬口労町」っておもしろい名前だと思いませんか?

馬口労町は、かつて馬や牛を売買する市である馬牛市に指定されていました。
馬牛市が行われていた場所には、現在下の写真のような標柱が立っています。

秋田は有名な馬の産地で関東方面からも博労(ばくろう)が訪れていました。また「伝馬役」というものを言いつけられ、津軽候や松前候が参勤交代の時に次の宿まで荷物を運ぶための馬を出すことになっていたそうです。
※博労(ばくろう)とは馬や牛の仲買人のことです。

藩政の中頃からは草市が始まり今でも続いています。

今回の記事では馬口労町について紹介しましたが
内容にあった「船つき場」「草市」についてはその2、3と少しずつ紹介しますので、お楽しみに!

3 COMMENTS

二喜ファン

よく調べられていて地理や歴史に疎い私でも楽しませて頂きました。今後も期待しています。

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