【旭北】世界最速の貧民救済活動

感恩講

大町6丁目、通称猿谷小路近くの空き屋敷に立っている石碑
「感恩講発祥の地」の石柱の題字は、那波別家那波雲城の揮毫で
全体の設計は洋画家伊藤博次です。
中央の石板にある「感恩講」の紋章は、香道の源氏香図の一つ
花散里―佐竹の替紋」で一つの石柱と二つの石板の記念碑が
「花散里」の紋章の形に配置され、石碑全体で「花散里」を立体的に表現して
います。
この場所は、元感恩講のあった場所。現在は児童公園として生まれ変わりました。
さて、今回は、先ほどから登場している「感恩講」についてクローズアップします!

旭南地区に位置する酒造会社「新政酒造」がある通りを歩いていると、感恩講の石碑を発見することができます。
感恩講は、江戸時代の文政12(1829)年に貧困救済児童保を目的に立ち上げた非営利事業です。
なんと、赤十字の発足よりも早く世界で最初の福祉事業といってもよいとか。

当時、主産業である稲作は栽培技術が未熟であり、河川の改修なども進んでいなかったことから、収穫は大きく左右され、農民の多くは貧しく、凶作となれば食べ物にも困る状態に。子どもの「間引き」をする例も多かったそうです。こうした問題の救済に久保田藩も苦慮していました。

この改善に立ち上がったのが、藩の御用商人である那波祐生(三郎右衛門)です。

町奉行橋本五郎左衛門秀実と相談し、富裕な町民から寄付を募り、
それで地行地を買い、生産した米を資金にして救済する方法を提案しました。
ちなみに…
橋本五郎左衛門秀実は「稲斎」と称し、晩年は保戸野八丁に隠居し、藩内表情を詳しく記した「八丁夜話」を執筆した人です。

まず、祐生氏自ら4百両余りの大金を拠出しました。
さらに富裕な町民に呼びかけを行うなど熱心に取り組んだそうです。
最終的には191人から2千両を超す資金が集まり、藩の賛同もあって非営利福祉事業としてスタート。
「感恩講」という名称は、これを喜んだ藩主佐竹義厚の命名だそうです。
子どもの保護と養護貧困者救済高齢者の保護などに収益の半分を使い、残りは凶作の年や、災害時の救護に備えました。

天保4(1833)年は凶作となり、千余軒が飢餓に見舞われ、120人の孤児が感恩講によって救済されました。

この講は久保田藩内に広がり最盛期は大館はじめ17もの講ができ、幕末まで続きました。
維新となり明治6(1873)年に地租改正令で資金源の水田が政府没収という危機を迎えましたが、実績により例外として存続が認められたそうです。
また同19年俵屋大火と呼ばれた秋田市の大火災時にも備蓄米千俵が救済に当てられ被災民を飢餓から救いました。
同31年には財団法人として許可された組織と事業は継続され
38年、保戸野諏訪町に児童保育園が開設されて児童収容保護が本格化
44年、中亀ノ丁への新築移転を経て、現在の場所(秋田市寺内)に感恩講が移ったのは昭和39年です。

上記の写真は、秋田市寺内の丘に立つ現在の感恩講児童保育院(左)と通路脇にある「常陸宮同妃殿下お成り記念御植樹」の杉の木(右)の写真です。
なおローマ、東京、メキシコと3度のオリンピックで活躍した金メダリスト・体操遠藤幸雄さんは中亀ノ丁時代の施設で育った一人だそうです。



以上、簡単ではありましたが、感恩講について述べさせていただきました!
災害の多い日本では、被災された地域の復興ボランティアや、途上国支援のための500円募金といった募金活動、農業技術支援など様々な非営利活動やボランティア活動があります。近年では、感恩講のような子供のための支援活動も注目されています。
私自身も感恩講の歴史を調べ、助け合いの精神の大切さを改めて実感することができました。

 

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